塩田千春《掌の鍵》– The Key in the Hand –
中野仁詞 神奈川芸術文化財団学芸員
展示空間に糸を張り巡らせる大規模なインスタレーションや、ドレス、ベッド、靴や旅行鞄など、日常生活のなかで人が使用した痕跡と記憶を内包するマテリアルを用い、作品を制作するベルリン在住の塩田千春。塩田は、近年、スケールの大きな作品が主流となっているヴェネチア・ビエンナーレの趨勢にも沿った大規模なインスタレーションを得意とする。彼女のインスタレーションは、常に使用する様々なマテリアルの選定のありようと空間の構成において、卓越した美しさを保ち、新鮮さ、力強さを失うことなく、われわれの心と身体に静かに浸透して行く。
塩田千春は、近年自らが経験した大切な人の死に導かれて、「死」と「生」という、普遍的でありながらも個々人が個別的に経験するしかないわれわれの宿命から目を背けず、それらを浄化、昇華して美術という共通言語に置き換え作品化する。塩田の作品から時にわれわれは、「死」や不確かなものの存在が予想される「未知の世界」に必ず潜んでいる「闇」を感じる。東日本大震災から3年を経た現在でもなお、ヴェネチア・ビエンナーレのような大規模な国際展に世界各地から訪れる鑑賞者は、日本館の展示に、物理的にも精神的にも深い「傷」を負った日本の姿を重ね合わせ、作品の「闇」の部分に過剰に反応してしまうということもありうるだろう。しかし、塩田の作品は、その「闇」の奥底に、希望、精神的な明るさともいえる力強い「光」を宿している。その光は、日本のみならず今日の不安定な世界情勢のなかで人々が感じる多くの不安をも包み込むものとなるだろう。
今回日本館に展示する《掌の鍵》は、建物2階にあたる展示室と1階の野外ピロティを使用し、2つの空間を統合したインスタレーションである。展示室に入ると、われわれは空間を埋め尽くす赤い糸を目にすることになる。天井から垂れる赤い糸の先には鍵が結ばれている。鍵は、日常生活のなかで家屋、財産、住む者の安全など大切なものを守り、温もりをもった手をもって使用される。そして、その鍵を使用する人々の掌の温もりに日々触れることで、鍵にはわれわれのなかにある幾多の記憶が幾重にも積み重なってゆく。そしてある時、記憶を蓄えた鍵は、大切なものを託せる信頼のおける人へと托されていく。塩田は鍵を、まさに真心を伝達する媒介と捉えてこの作品に取り入れる。さらに、天井から床にかけて吊り下げられた夥しい糸と鍵のただなかに、2艘の舟が置かれる。舟は、天から注ぐ数多の鍵=記憶の雨を受け止める両手を象徴する。2艘の舟は、手を取り合い助け合いながら、記憶の大海のなかを、記憶を拾い上げながら進んで行く。そして、ピロティには、大型のボックスが設置され、その壁面には、鍵を乗せた子どもの掌の写真を展示するとともに、生まれる前と生まれた直後の記憶を語る幼児の映像を4つモニターで上映する。子どもが語る、誕生時の記憶。積み重なった記憶を内在する鍵。展示室とピロティで、われわれは2つの位相の記憶を体感し、展示に呼びかけられ、自らに内在する記憶を拾い上げ、記憶を紡ぎ、記憶を自分のなかにとどめ、そしてそれを他者へと繋いで行くことになるだろう。
鍵、糸、2艘の舟で精緻に構成される空間と子供の写真、映像を関係させたインスタレーション《掌の鍵》が、世界各地から訪れる多くの鑑賞者の心を言語、国籍、文化的政治的背景を超越して揺さぶることを期待する。